談話室(ティータイム

           救い(1)

 神の愛と神の義のジレンマ
 

ルカによる福音書第15章を読むとき、神は実に慈愛とあわれみに満ちたお方であることを見ます。いかなる罪を犯した人であろうとも、あわれみをもって赦し受け入れてくださる神です。しかし、ここでわたしは質問したいと思います。神にとって人の罪をゆるすことは簡単なことでしょうか。

答えは「否」です。なぜなら、神は愛の神であると同時に義の神であられ、罪を見逃すことのできないお方であるからです。 

わたしたちは罪をあいまいに取り扱います。しかし神は少しの罪もあいまいにできない義なるお方です。ですから、罪人を受け入れるにあたって、神には問題があります。神の愛の面からすれば、わたしたちの罪を赦し受け入れたいのです。しかし神の義の面からすれば、少しの罪をも受け入れるわけにはいかないばかりか、裁かずにはおれないのです。「血を流すことなしに罪の赦しはありえない(ヘブル9:22)とあるからです。

ここに神のジレンマがあると思いませんか。神の愛と神の義のジレンマです。

しかし、ハレルヤ!神に感謝します。神はこのジレンマをイエス・キリストの十字架にあって解決されました。神は一人の人、イエス・キリストとなられました。そして、わたしたちの罪のために、神の義の要求に従って十字架で裁かれ、血を流してくださったのです。

            
 

かつて、同志社大学の創立者であり、また、校長でもあった新島襄先生は、その在職中、学生問題で大きな困難に出遭ったことがありました。問題を起こした学生たちは校長の前に立っても、「何が校長か」とふてぶてしい態度でした。新島先生は、その学生たちに向かって、「どの学校にも学則はある。学則を破ったからには学則に従って罰しなければならない」と言って、すぐさま、そこにあったつえを取り上げ、「ピシッー」「ピシッー」と激しく、二度、三度とたたき始めました。彼がたたいたのは、自分の左手でした。見る見るうちに手ははれ上がり、血がにじみ出ました。しかし、やめません。たたき続けました。彼の手は真っ赤になり、ついにたたき続けていたつえは数本に折れたのです。この時、学生の一人が「先生、やめてください、わたしたちが悪うございました。ゆるしてください」と叫んだのです。他の学生も、泣き出しました。彼らは、校長の愛に触れたのです。しかし、そこには義もあったのです。

イエス・キリストの十字架を見上げるとき、そこに神の愛を見ます。「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」(ヨハネ15:13)とキリストは、自ら言われたことを実行し、愛を見せてくださいました。しかしまた、この十字架に神の裁きがあったのを見ます。「しかし彼(イエス・キリスト)はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ」(イザヤ53:5)。さらに、「しかも彼を砕くことは主のみ旨であり」(イザヤ53:10)とあります。

ああ、なんと感謝なことでしょう。この十字架上のキリストの血のゆえに、神の愛と神の義とのジレンマは見事に解決されました。この血のゆえに神はわたしたちを喜んで赦し、迎え入れてくださるのです。


  出典:日本福音書房「福音例話集」

      
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