わたしたちのあかし   
                       
    
目次


                 ◆虚しさを満たしてくれる喜び
                 ●御言葉こそ生ける糧
                 ◆悩みの答えは教会と聖書にある
                 ●今、新しい歩みを!
                 ◆神の平安を生きる秘訣を得ました
                 ●仕事上でのキリスト
               ◆Way of Life(命の道)
               ●心にある平安
               ◆本当に得たいもの、それはキリスト
               ●定年に想う
               ◆愛する主との再会   



虚しさを満たしてくれる喜び    留学生

 

私がクリスチャンになるまでは、学校、仕事、そして家族、友達など、ほぼ普通の人々のような生活を過ごしてきました。しかし以前から、そして特にこの4,5年、家族や友達と一緒にいる時でも、一人で何かをやっている時でも、いわゆる楽しい時でも悲しい時でも、心の中は何かが足りないと感じていて、もっと何かをみつけたいと強く思っていました。しかし、それが何なのかは、その時の私には全くわかりませんでした。

 その後日本に留学し、そこで出会った一人の学友に心の内を打ち明けていました。そんなある日「私たちは福音集会をしますが、来ませんか」と誘ってくれ、興味があったので「はい」と答えました。そこでは、皆で聖書のみことばを読んだり、詩歌を歌ったり、皆の証しを聞いたりしました。皆さんの顔を見て声を聞いていたら、「あー、本当に自分の周りにこんなに多くの人々が主とともに幸せな生活を暮らしているのですね」と感動しました。また、自分がずっと探している道がこれでしょうかと考えました。

 その後、もう一人の学友から学生聖書読書会に何度も誘われましたが、決心がつかず迷っていて、すぐには読書会に行きませんでした。ですが、ある日またいつものように優しく「来週、読書会へ行かない?」と言ってくれた時、なぜか私は「はい、行きます」ときっぱり答えました。今考えたら、これは偶然ではなく、主が私を徐々に導いて下さったのではないでしょうか。そして、読書会の皆さんと聖書などを読んで、祈りをして、私は主と出会いました。特に皆さんと一緒に「主イエスよー」と呼んでいるとき、内側が充実し、「なんと不思議なことでしょうか」と思いました。その後の聖書の学びを通して、主の命が私を満たしたということがわかりました。今までずっと探してきた、虚しさを満たしてくれる何かのものは、主イエス、私たちのため、十字架の苦難を受けられて救いとなって、今やわたしたちの命となってくださった神でした。

 私はクリスチャンになってまだ時間も短くて、まさに神の一番小さな子どもです。しかし、年齢や性別とかに関係なく、私が新しく生まれた喜びは最高です。もうこれから霊の中でずっと主と共にいられることがわかっています。例えば私たちは楽しい時や悲しい時にも、主が必ず私たちと一緒にいることもわかっています。主の名前を呼んだら、必ず守ってくださって、内側から力が出ます。これは実際に神の子たち、兄弟姉妹を通しての主の力の表れです。兄弟姉妹の顔を見て、声を聞いてください。この大喜びは、すべては主の顔、声、そして光の表われです。これは私たちが主の霊の中にいないと絶対に感じられません。もっと多くの人が、主の光に照らされて、この大喜びがもっともっと増えてほしいです。

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御言葉こそ生ける糧
〜今日のこの日まで、ずっとわたしの羊飼いであられた神〜
                      (創世記48:15後半)

                                  50代 主婦

 初めて教会の集会に参加したのは26歳の時でした。その日、「神様もあなたを、あなたよりずっと前から捜し求めていたのですよ。失われたあなたをずっと探し続けてくださっていた真の羊飼いだったのですよ」というメッセージを聞いた途端、わたしは「あぁ、この方の御胸こそわたしが帰る場所だったのだ!」と、その場に座り込みたいような安堵感でいっぱいになりました。それまで自分は日本人なので、救いというのは東洋の神々にあり、ましてイエス・キリストというお方は外国の遠い昔の人で、わたしとはほとんど縁のない人という観念があったので、何とか希望と平安を得て救われたい一心で日本の宗教は殆ど学び尽くしていました。しかし、それでも乾きは癒されず、それなら今度は教会という所に行ってみよう、とりあえず参考までにキリスト教の説教というのを聞くだけにしよう、と決めて出かけたはずなのに、メッセージの初めからもう涙がこみあげてきました。「あぁ、わたしはもうどこにも行かなくていいのだ、あてのない旅はもう終わったのだ」と心の中で繰り返していました。この救いはわたしがそれまで聞いてきた「してはいけないという律法や教え、励みなさい、努めなさいという努力奮闘」とは全く違った救いでした。わたしを裁くのでもなく、今後は改心して善行を行なうようにと改善を強いるのでもなく、ひたすら優しく、わたしのことは何でも知っていて、すべてのことがこの方の御手の中におさまっていて、目には見えないけれど今も生きているお方に確実に触れた、というそのような救いでした。絶壁に立ちすくんでいて、引き返す道はすでになく、これ以上はもうどこへも進めないという最後のチャンスの時に、真の生ける救い主に出会うことのできた喜びと感謝は一生かかっても言い尽くせないものです。神さまの方から「捜し求めてやっとあなたを得た!」と両手を広げてわたしを抱きしめてくださった、という運命的な出会い、出会うことを定められて出会ったという強烈な救いの感覚は今なお新鮮です。あれから27年経ち、様々な人生の節目がありましたが、あの時の鮮烈な出会いを思い出す時に、この方を離れてはわたしの人生は無である、という信仰の錨を降ろすことができます。

 朝、家族と一緒に聖書を読み、共に祈り合うことで一日が始まります。一人で聖書を読む時には、旧約聖書ですでに神のご計画が永遠の過去から啓示されていることに驚嘆し、単なる昔の物語としてではなく、新約の絵として見ることができます。福音書では受肉され、人となられ、父のみこころ通りに生きられたイエス・キリストを知り、各書簡では御父、御子が今「その霊」と成って実際に経験できる方となり、わたしたちともっと混ざり合いたい、そして造り変えらたわたしたちを通して、キリストのからだを建造したいというみこころの奥義の深さを知ることができます。そして啓示録では、「究極的に完成された新エルサレム」において、永遠の未来に渡る神のみこころの完成と成就がどういうものであるのか、神と一つになるというわたしたち定めの何と栄光なことかという光景を味わいすることのできる幸せを満喫できます。このように、わたしにとって御言葉の中に没頭している時間は何にも優る至福の時です。また、教会生活での集会を通して、聖徒たちと一緒に聖書の学びをしたり、共に霊的な書物を追究する時はより多くの供給を受け、享受も倍増します。

 わたしたち一人一人が人生で遭遇する出来事というのは限られています。自分に与えられたさまざまな環境の中で聖書の真理が適用され、すべてを含む主の豊かさを知ることができることも感謝なことですが、教会生活の中で他の聖徒たちが味わった聖書の御言葉、生活の中で実際に経験したキリストを共に交わり、分け合う時に、その供給と享受は何倍にも増し加わります。主がいかに聖徒たちの中で働いて、主の命を造り込んでいるかという恵みに共にあずかり、互いに命の成長をしていくことができます。ちょうど、大勢でたくさんのご馳走を持ち寄れば、いろいろな味を深く味わえる、という豊かな広がりにも似ている世界です。また、わたしたちの前面を歩んでおられ、ことばの務めを解き放ってメッセージをしてくださる方を通して主が語られる時に、一人ではわからなかった聖書の御言葉の真理が開かれ、啓示と光と視力が与えられ、ビジョンを見ることができることも教会生活の豊かさゆえであることを感謝しています。

教会生活の中に身を置く時に、わたし一人では決して見ることができない神のご計画、自身の心の願いがどんなものであるのかがあふれるばかりに展覧されることを心から感謝しています。ちょうどわたしが救われた日のように、わたしたちが神を必要とするだけでなく、神もわたしたちがどんなに必要であるか、どんなにわたしたちと一つになりたいかを主は豊かに、惜しげなく、無限に語ってくださいます。

「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出るすべての言葉によって生 きる。」  (マタイによる福音書 第4章4節)


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悩みの答えは教会と聖書にある                                     
                              
30代 教員

 皆さんは悩みがあるときどうしますか?
  かつての私は仕事上のことでもプライベートなことでも、些細なことで深く悩みがちで、そんな時、すぐ信頼できる友達に電話して相談したり、自己啓発的な本を読みあさっては自分のケースに当てはめ参考にしようとしたり、とにかく必死に動き回り解決の道を探ってきました。その都度確かにアドバイスや、ためになりそうな心構えを得たりするのですが、ある時それは、その場しのぎの気休めにしかなっていないことに気づきました。しかも、人が人を導くのには限界があるようです。例えば、ある問題について友達に相談した場合、ある友達はAという方法が最善だと懸命にアドバイスしてくれますが、別の友達はAという方法は避けたほうがいいと忠告してくれます。どちらの友達も私のために真剣に考えてくれているのは確かですので、私はますます悩む結果となり、結局答えは自分自身、頼れるのは自分だ・・という境地に追い込まれるわけです。

でも、この主イエスを信じる信仰の道は自分で解決するとか、自分で道を切り開くとかではないという話を聞き、今までの自分の生き方とまったくかけ離れた不思議な道であることに少し興味を抱きました。そして、聖書には私たちが平安の中で生きていく秘訣が書かれていると聞いて、当時まさに些細なことで悩んでは人に相談しても心に「平安」がなかった私は、聖書を読めば何か変わるかと思って夜こっそり一人で読んでみました。しかし実はぴんとこなかったし、当然目の前の問題が消え去ったわけでもありませんでした。

  そこで、誘われるままに教会の集まりに参加してみました。でも心の中では、私の悩みを話すわけじゃないし、私の悩みを知らない教会の人たちといっしょにいても、「直接的な解決にはつながらないだろうな〜、所詮他人は他人、私の気持ちが100わかるわけない」と思っていました

 でも不思議なことに悩みの答えは教会の人たち(神から生まれ、同じ神の命を持っているので、私たちは兄弟姉妹と呼んでいます)が語る経験や聖書のみことばから得られることが多いことに気づきびっくりしました。しかも、それが直接私の問題とは関係ない話なのに、です。神はそのときその人に必要な真理や言葉を、兄弟姉妹を通して語られているかのようです。そんなことが重なり、集会に参加するようになりました。

 ここでの兄弟姉妹の交わりは、経験から得た教訓のようなものではなく、ただ自分の経験の中で辛かった状態、そしてそのとき励まされた聖書のみことばなどを中心に主の実際の恵や働きを証しするというものです。そして一人で読んでもぴんとこなかった聖書が、兄弟姉妹といっしょに読みながら語り合うと、その聖書のことばが生き物のように私の中で動きだす・・・といった感じになるのです。そしていつの間にか、祈るようになり、聖書を読むことや兄弟姉妹との交わりが私の慰めとなり、励ましとなり、生きる力となっています。その感覚を言葉で表すと、「ああ、そうか!」と腑に落ちるとか自分の中で何かがふっきれるといった感覚で、悩み事や問題から解放されるときに味わう、なんともすがすがしい感覚に加えて不思議な嬉しさがわきおこってくるのです。わたしの経験から悩みから解放される道、いや!それ以上に生甲斐のある道は、まず主を受け入れ、信じ、祈ることで主と個人的な交わりを持ち、同じ主の命が流れている兄弟姉妹のいる教会生活の中に身を置くことによってその問題に対して主が導いて下さるということなのです。

その後も同様な悩みを持つこともありますが、主イエスへの祈りにより、聖書のみことばにより、兄弟姉妹との交わりにより、その都度解決されてきました。

これは他の兄弟姉妹から聞いた話ですが、 “ワンダフル”(wonderful)という言葉はワンダー、不思議(wonder)がいっぱい(ful)という意味だそうです。私は教会生活を享受することでたくさんのワンダーがいっぱいの“ワンダフル”を経験しています。

  また、聖書のみことばマタイ1128節に「すべて労苦し重荷を負っている者は、わたしに来なさい。そうすればわたしはあなたがたに安息を与える」とあります。

主は私たちに「来なさい」とおっしゃっています。主が与えてくださるワンダフルをいっしょに召会の中で、聖書に触れて経験して頂きたいと願っています。


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今、新しい歩みを! 〜わたしのクリスチャン人生〜        
                                            60代 主婦

 わたしがキリスト教というものに出会ったのは、小学校高学年の頃でした。わたしには6歳上の姉がいるのですが、その姉が通っていた高校がミッションスクールでした。日曜日になると、その学校の教室が開放されて、アメリカの宣教師と通訳の女性の方が聖書のお話や、パネルを使って神様のお話をしてくれました。帰りには御言葉が書かれたきれいな小さなカードをもらうのが楽しみでした。そのような生活の中でわたしも高校生になり、教師に勧められて洗礼を受けました。でもその後、自分の生活が、仕事のことや、友人との時間のやりくりなどで忙しくなり、次第に教会生活から離れていってしまいました。

 25歳で結婚して、3人の娘も与えられ、その後この地へ引越してきました。はじめは土地に慣れないことや、わたし自身も仕事をしながらの子育てなど、忙しい生活でしたが、しばらくして近くに教会があることを知り、足を運ぶようになりました。その教会では、牧師が聖書の中の聖句を用いて説教をしてくださいました。信徒はそれを静かに聞いている・・・・聖歌も歌い、祈りもするのですが、わきあがる喜びがありませんでした。わたし自身、日常の生活の中ではあまり聖書も開かず、祈ることも個人的な狭い祈りになっていたと思います。

 信仰って、これでよいのだろうか・・・・。疑問を持ち、考えるようになりました。そのような時に、同じ教会で集っていた姉妹が主の回復に導かれていました。姉妹の主を追い求めて喜びに満ちあふれている姿を見て、わたしも姉妹のように主を追い求めていきたいと願うようになり、姉妹を通して主の回復の教会に導かれました。はじめは週に一回聖書の学びがありました。今までさらっと読んでしまっていた聖書の御言葉一つ一つがこんなにも甘く、意味深いものであることを知り、驚きでした。姉妹方との交わりを通して、実際の生活の中での主との具体的な関わり、霊の中で主を呼び求める時、いつも喜びがあり、平安があり、甘さがあり、主が愛してくださっていることを感じることができるのです。

 『信仰とは・・・・』と考え込んでいたわたしに「主を信じること」ってこんなにもすばらしいことなのだよ、と導いてくださった主に感謝して、これからも主に従って「信仰」を持ち続けていきたいと思っております。

「まず神の王国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらの物はすべて、あなたがたに加えて与えられる。」 マタイによる福音書 第6章33節)


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        神の平安を生きる秘訣を得ました
                             60代 自営業

 わたしは現在、六十半ば、人生の結末をつける時期にさしかかっていると認識しております。三十三才の時に勤めていた会社が倒産し、以後独立自営の道を歩んできました。ちょうど三十年が経過しました。

 わたしが独立の道を選んだ最大の根拠というのは、自分は健康な肉体を持っているので何ものも恐れることはない、ということによるものでした。体が健康であるならば、人間食べることぐらいは何をしても、またどんなことをしてもできるという自信でした。

 四十九才の時に主イエスを知り、救われました。しかし依然としてわたしの生き方、生活の仕方は相変わらず自分の生まれながらの体力と能力を唯一のよりどころとするものでした。しかし、そんなわたしのもろく、また愚かな自信は突然の病で一瞬にして崩れ去りました。以来、自分の肉体も身に降りかかるすべての環境も己自身ではどうすることもできないものであることを感じ始めました。人は神に依存して生きることの他には道がないことを知ったのです。そして心の平安を知る者となりました。心が平安であることは環境が平穏無事であるということではありません。仕事をしていく上で、また家庭生活の中でいろいろと問題は起こりますが、その都度神からの言葉がわたしに内側から語られます。
「『わたしは決してあなたを見放さず、また決してあなたを見捨てない。』ですか
ら、わたしたちは勇気を出して言います、『主がわたしの助け手である。わたしは恐れない。人はわたしに何をなし得ようか?』」
(ヘブル人への手紙 第十三章五節後半〜六節)

 このような聖書の御言葉に信頼を置く時に、わたしの思い煩いや不安が次第に消えて真の心の平安を得ることができます。最近、わたしは、会社の取引先の倒産という状況に直面しました。このことは、私の会社としては決して小額ではない債権の放棄及び連帯保証人としての代位弁済の義務と併せてそれなりの充てにできる販売ルートの消失を意味します。しかし、急に倒産したわけでなく、それまでの期間、一面祈り、一面最悪のことを考えてきました。徐々に、すべてのことは、主の許し無しには起こらないことに気がつき、不思議と平安で、また冷静でいることができるようになりました。私たちが得た物は、もともと主から与えられた物で、主からのものを主に戻すことであることを知った時、次第に何の未練も躊躇もなくなってきました。

 わたしの得た「神の平安を生きる」という実際は、実は教会生活の中にこそ、その秘訣があったのです。わたしにとって何よりも心強いのは、わたしは単独でクリスチャン生活をしているのではなく、いつも内側に主の臨在があり、外側には教会の聖徒たち(真の仲間たち)がいてくれることです。そしてすべての重荷も、苦痛も、痛さも、一面主が共に担って下さり、もう一面聖徒たちがとりなしの祈りや交わりを通して、団体で教会生活をしている実感を与えてくださいます。その為、消極的なことは何分の一かになり、積極的なことは何倍もの喜びとなると感じています。


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                   仕事上でのキリスト     40代・音楽講師

私はマンツーマンで教える仕事をしていますが、自分は結構忍耐力があり、指導者としてまんざらでもないと密かに自負していました。ある時、何度も丁寧に噛み砕いて説明したにも関わらず、こちらの意図が一向に伝わらない生徒に対してイライラがつのり爆発したくてたまらなかったのに、できないその子が悪いわけではないのだからと、ひたすらこらえにこらえて、いら立ちの気持ちを必死に飲み込みながらていねいに説明し続けました。ところが生徒が帰った途端に胃が激しく痛み、全身の筋肉がけいれんを起こし、無性に悲しいやるせない気持ちで心身共に言いようのない辛い状態になってしまいました。自分ではどうすることもできず、ただ治まるのを待つのみでした。2〜3時間してようやく落ち着いてきましたが、生徒を怒らなかったことはクリスチャンとしての自分の良心に照らしてそうあるべきだと思ったからこそ我慢したのに、そのストレスでこんなにも辛い思いをするなんて、これからどうしたらいいのだろう?と思ったことがありました。これは、既にクリスチャンではありましたが、まだキリストの十字架による贖いを信じただけで、神の命の中で神聖な神の性質で生きる生活があることを知る前のわたしでした。

今でも相変わらず、「やる気があるの?」「少しは復習してきてよ!」「人の話を聞きなさい!」「これだけ注意してもわからないの!」などでイライラッとしそうになることがあります。しかしその時、心の中で「主イエスよ」と叫びます。主の御名を呼ぶと自分の苛立った感情、相手に対するさまざまな思いから、命を与える霊となってわたしたちの命となってくださっている主に向きを変えることができます。その瞬間、わたしの中のイライラはすっと消えてなくなります。これは理性で抑えるのでもなく、強引に自分に言い聞かせるのでもなく、自然に解消し平安になり、その生徒の課題に対して冷静に愛情をもって指導することができ、結果的に生徒にも喜んでもらえます。主の御名を呼ぶことで、イライラしてストレスが溜まらなくて済むどころか大きな喜びがあります。自分でがんばってうまく指導できたというような喜びではなく、主の命の中で指導することができた喜びです。これは主である神の性質(神の愛から生まれる忍耐)を表現できたということでもあります。

一般に人は自分のいやな面を外側に表してしまった時落ち込み、反対にいい自分を表現できた時ほのぼのとした幸いな満足を感じることってあると思うのですが、その感じの何倍、いえ、何乗もしたような、それよりもっと深い喜びと満足があります。何しろ自分のではなく、愛なる神の性質を表現できるのですから!

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Way of Life(命の道)   30代 会社員

クリスチャンになる前、わたしはクリスチャンになれば重荷と苦労から抜け出すことができるのだと考えていました。ところが、わたしの経験では、実はクリスチャンになることは逃れること以上に得る事に意味があるとわかりました。クリスチャンはとても不思議です。聖書の中でパウロという人はクリスチャンについて次のように言っています。「惑わす者のようでも、真実であり、知られていないようでも、よく知られており、死にかかっているようでも、見よ、生きており、懲らしめられているようでも、死に渡されておらず、悲しんでいるようでも、常に喜んでおり,貧しいようでも、多くの者を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを所有しています」(コリント人への第2の手紙 第6章8節後半〜10節)。言っていることが矛盾しているようですが、わたしはこれが真実であることを証しすることができます。

実際多くの時、わたしたちの周りの環境はわたしたちの心を左右させますが、人が喜んだり悲しんだりするのは本質的には内側の事柄なので、もし内側に確固たる平安と喜びがあれば、外側の環境に大きく影響されることはなくなるのです。この内側にある確固たる平安と喜びこそがキリストなのです。パウロが言っているように外側では消極的に見える逆境の中でも「すべてを所有している」命がわたしたちの内側にあるからです。

わたしは建設コンサルタントという職種のサラリーマンです。一般的に、この職種は、責任が重くのしかかり、長時間の労働を課せられる割に給料が安いという話しを聞きます。たしかにその通りなところもあります。そんな業界であるとは知らなかったわたしは、この時、神からの導きだったと感じられ、あまり会社のことを良く調べずに入社しました。

わたしの所属する職場には8名の同期が配属されてきました。わたしたちはとても仲が良かったため、何かあれば、共に悩みや愚痴を言い合い、励ましあい、ストレスを発散させてきました。たとえば、人間関係では上司との折り合いや同僚との関わり合い、また、仕事上でも能力や経験不足などの自信喪失、また仕事とは言え、度重なる顧客のわがままな要求の対応など、結局各自が抱える問題の根本的な解決にはならず、ある者は会社を辞めたり、他の者は希望して他の部署に移っていったりしました。中には精神的にも肉体的にもかなり危ない状態になった者もいました。結局今はわたし一人だけが今の職場に残っています。

聖書の別の箇所でパウロはまた「わたしはどんな境遇でも、満ち足りる事を学んだ。・・・・あらゆる事において、またいっさいの事柄において、・・・・・秘訣を学びました。わたしは、わたしを力づけてくださる方の中で、いっさいの事柄を行なうことができるのです」(ピリピ人への手紙 第4章11節〜13節)とも言っています。このようにされたのはパウロの中の神の命でした。これは本当にすごいことです。

彼らが感じた苦悩ややりきれなさはわたしも同じです。ところが、わたし自身はこれまで会社をやめたいと思うほどに追い込まれたことはありませんでした。なぜならわたしもパウロが得た秘訣を少し学んだからです。この秘訣はわたしの中に生きている神・キリストです。この方の名を呼び求め、祈り、すべてのことをこの方に信頼し、ゆだねる時にわたしの内側に平安が得られます。

この神は実に懐の深いお方です。わたしたちのすべてをそのまま受け入れてくださいます。ただ、「主イエスよ」と彼を呼び求めれば、生ける神を得ることができます。わたしは多くの宝をこの神から得ました。キリストの命の中にはわたしたちの必要とするすべてがあります。神を信じることはWay of Life(命の道)なのです。

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心にある平安         50代・主婦

わたしは何事にも自信がなく、はっきりとした進むべき目標も見い出せずに不安定な状態にあった頃、友に裏切られたことも重なり、誰をも信用できなくなっていました。生きているのがつらく、望みが消え入りそうでした。24歳の冬のことです。ある夜、一人アパートの自室で藁にもすがる思いで「神さま、わたしは誰をも信じることができません。これから、どう生きていけばいいのかもわかりません」と泣きながら叫んでいました。まさにその時、神はわたしの内側の奥深いところに触れてくださいました。不安や迷いは霧散し、大きく、深く、暖かい愛の手に包み込まれる感動だけがあり、喜びの涙を流していました。これが神との出会いでした。しかし、その時はまだ神がどなたであるか、はっきりとしていませんでした。
 それから数週間後、会社の同僚を通して教会へ導かれ、主イエス・キリストについて語られて、その方こそ、私が出会ったあの神であることが理解でき、信じ受け入れました。そして人生で最高の宝を得ました。その時から、わたしの心にはキリストの平安があります。その後、悩みがあったり、落ち込むようなことがあっても、友に語るように、何でも主に話す時、不思議に心が落ち着き、物事を冷静に受け止めて歩むことができるようになってきました。キリストこそ、信頼に足る唯一の方であり、望みであり、命、光、力、道であり、真の満足、喜びです。私にとってすべてのすべてです。

人生という航海は、物事が調子よく、思い通りに進むことばかりではありません。悲しみ、苦悩、煩い、恐れ、不安、病気等、波のごとく、押し寄せてくるのが人の常です。自分の力で避けられることばかりではありません。その度ごとに、心は揺れ、傷つき、暗くされます。しかし、日毎に、聖書の生ける神の言葉を読み、触れる時、命の光がわたしの心を照らし、明るくさせ、わたしが必要とする適時の助けとなって、心に平安を得させます。それでも、一個人の信仰は、小さく、弱いものです。私は教会生活の中で、神を愛する多くの聖徒たちと、家族のように集い、聖書の言葉を学び、語り合い、神の心の願いを知りつつ、神を賛美し、祈り、愛の中で励まし、支え合いながら、さらに神を愛し追い求め、心の深みから神によって喜んでいます。教会生活を通して、神の愛で心が満たされ、信仰が強められ、ますますキリストの平安の中にもたらされています。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。あらゆることで感謝しなさい。」(テサロニケ人への第一の手紙 第五章十六節〜十八節前半)                どのような状況に置かれていても、キリストに私たちの内側で活動していただくことによって、喜びの生活をすることを、神は願っておられます。

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       本当に得たいもの、それはキリスト     40代 主婦

 わたしがまだ学生だった頃、「自分にとって生きがいとは何だろう、幸せに暮らしていくには何を手に入れたらいいのだろう」と思い巡らす時、浮かんでくることは、目指す職業に就き、人と社会に貢献することでの自己実現、また、結婚し子供を産み育てることでの自己充実、そのように思っていました。幼児教育という職業に就き、愛する人と結婚し、子供も授かり、希望と喜びに満ちた家庭生活、これは正に自分が求めていた幸福だと、満足感を覚えました。しかしその一方で、時々ふっと込み上げてくる虚しさ――望んでいたことのただ中にあるのに、何かまだ大きな何かを得ていないような空虚感に襲われることがありました。手に入れることができた幸福と思えるすべてのことはいつまで続くのだろう、いずれは終わってしまうのだろうか、という思いに捕われると、不安に包まれました。そしてその不安から逃れようと、旅行、レジャー、趣味に興じることなどの中に、喜びを見出そうとしていたのですが、自分の内側には、真の平安と喜びはやはりなかったのです。だからといって、神の存在について考えたり求めたりすることはありませんでした。
 そんな折、天地を創造され、今も、そして永遠にわたる神がおられることを、わたしに伝えてくれた友人との出会いがありました。神がおられるなら、わたしも知りたい、そのような願いを持ち、わたしもクリスチャンになりました。その時、内側の不安から解放されたことを経験しました。神に対する感謝で一杯でした。その後、大きな変化もなく、信仰生活を過ごしておりました。ただ、今思うと、主観的な神の経験が乏しかったように思います。

神は目的とご計画をもつ神であり、それは聖書の中にすべて記されています。神は信じる者の中にご自身を供給し、その人のすべてとなりたいのです。そして、一つの体には多くの肢体があるように、わたしたち信じる者一人一人がキリストをかしらとするからだの各肢体となって、相互に組み合わされ、調和された新しい人としての神の表現となることを願っています。神はわたしを彼の目的の中へと更に導こうとされていました。わたしには神に対する観念がいつの間にか形成されていたことに気がついていなかったのです。前を歩んでいるクリスチャンとの交わりを通し、自己の観念で凝り固まっている自分を見せてくださいました。へりくだり、単純に心を神に向け、神を求めるならば、神は直ちにご自身を示してくださいます。「おお、主イエスよ」と心を開き、神に呼ばわった時、不思議です、神について多くのことは理解していませんが、神に触れることができました。神が確かにおられ、しかもとても身近だということがわかりました。この時から、神はわたしにとても身近な神となり、神の言葉、聖書もまるで違った聖書のように思えるほど、神の心で満ちていることがわかりました。「神を源とする命の木と敵サタンを源とする善悪・知識の木という二本の木の路線」や「キリストは今日、天の御座に居られるだけでなく、命を与える霊となって、わたしたちの内に住まわれ、わたしたちを照らし、命の感覚を与え、行動において促しや導きを与えておられる」等、聖書から日々驚くべき発見をしています。このように、神は聖書を通してわたしたちに語りかけ、赦し、求める者には惜しみなく、その豊かさを分け与えてくださることを経験しています。わたしが本当に得たいもの、それは主イエス・キリスト、生ける神です。

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定年に想う       60代元会社員

 長い長いサラリーマン生活を終え、やっとこの春定年になりました。わたしが就職した頃は五十五歳定年でしたが、その後の高齢化、少子化傾向等で社会は定年延長へと動き、当初より五年も多く働いてしまいました。

 定年が近づくと何人もの同僚から、特にわたしに年齢が近い人から「定年後、何をするの?」と聞かれたものでした。「わたしのライフワークである教会生活!」と答えていました。そして、日々のクリスチャン相互のキリストを中心とする交流、各種集会への参加、国内外諸教会との交流、聖書及び神のみこころに関する豊富な量の本からの供給、わたしの定年の時期と同じくして完成した教会の新集会所での各種奉仕等、具体的なイメージを説明した時、大半の友人は、「やることがあって、いいなぁ」という反応でした。彼らは、日本男性の平均寿命は八十歳近いので、定年後の二十年をどう過ごすか想像できないようでした。何か新しい趣味を始めるには、あまりにも遅すぎるというのです。定年間近の人でないとその切実さがわからないかもしれませんが、実際本当にやることがないらしいのです。

高度成長時代に就職した、我々の世代は「自分は会社に必要な人間なのだ」と、自分に暗示をかけたみたいに、仕事以外何にも振り向かなかった人が多いのです。しかし黄昏の年代になると、情報化等の世の中の動きに必ずしもついて行けず、景気低迷が長期化すると、リストラに怯え、ますます会社以外のことに目を向けることができなくなったのだろうと想像されます。そのため、定年という理由でその人から仕事を取り上げると、やることが全く見当たらず、決まって「定年までに何かを見つけるよ。」と決意を空しく語るのでした。

 わたしの場合は、就職し、社会人になってからクリスチャンになりました。初めて教会の集会に参加した時、このように互いに心を開き合い、麗しい関係を持っているグループが地上にあったのだと、全く圧倒されました。社会人になって、見たくもない人間関係の醜さ等を見てしまったことも影響しているのかもしれません。その時以来、現実の会社生活を送りながら、聖書の世界、すなわち教会生活をこころの拠り所としてきました。一緒に仕事をした同じ会社の仲間やお客さまに、価値観が異なることから、彼らが望んでいるようには行動しないことも多かったと思うのでわたしは、多少やりにくい人間だったかもしれませんが、わたしの内側にどっしり居座ったキリスト・イエスを無視し、妥協することは困難でした。

聖書を読めば読むほど、集会をすればするほど、聖書を通して書かれた神のみこころやご計画に触れ、人間の生存の意義や人生の目的が次第にはっきりしてきました。聖書の神は、真に生ける神であることを、ことあるごとに認識させられています。

今は、仮にわたしに人生が百個あるなら、百個共全部、教会生活を享受したいと思っています。

      
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            愛する主との再会        女子大生

 わたしは小学生の時、主イエス・キリストを救い主として信じ受け入れたのですが、中学生になる頃から友だちと遊ぶことの方が楽しくなり、日曜日も教会の集会にも行かないで、親や周囲の言うことを無視し、自分のやりたいようにしていました。自分では派手で楽しいつもりでしたが、学校では生活指導に厳しい先生と毎日のようにぶつかり、度々泣いて逃げ出していました。そんな時、親に勧められて年に一度くらい教会の集会に行き、賛美の歌を歌うと、いつもなぜか涙がでてきました。今思うと、あの時わたしの内側は空しさを覚え、主を求めていたのだと思います。

大学に入っても、自分の都合を優先し、教会から離れて生活していました。美術の勉強をしているので、自分を表現し、この世で評価されるのを目標にしていましたが、その考えがくつがえされたのは、大学二年の夏休みのことでした。
 旅行気分半分に、久しぶりに泊まりがけの集会(河口湖)に行くことにしたのですが、当日、集会所の前まで来て急に怖くなり、入ることができず、引き返すかどうか迷い、三、四時間周辺をうろうろしていました。気力がなくなり、とても気持ちが沈んでいました。帰るに帰れず、なんとなくかばんの中のメッセージ集を読んでいく内に、光が差し込んできました。「あなたの過去が間違っていたとしても、今日その歩みをやめて主に言うことができます。『あなたに帰ります』。主はあなたのために多くの物を持っておられます。あなたは主に差し上げるものはなくても、主には、与える物があります。そして主は罪人を必要としています」。涙がぼろぼろと流れました。今までの自分勝手だった生活が過っていたこと、教会生活こそわたしがいる所であり、必ず恵みが伴い、満足が与えられること、そして主がわたしでも必要としてくださっていることがわかりました。感謝です。まだ戸惑いや不安がありましたが、すべて主にゆだねて集会所に戻ることができました。そこでの集会では、本当に新鮮な多くの供給があり、内側から暖められ、喜びと満足で満たされることができました。今までは、自分の独創的な考え、素晴らしい提案を持っていなければだめなのだという価値観に追い込まれていましたが、ただ主を愛し、そして祈るなら、この観念に捕らわれることなく、平安の中で主と共に考えることができることがわかりました。

この世の評価を求めるのではなく、主を求めます。主を第一にし、日々主と共に生活することにより、わたしを通して少しでも主を表すことができますように!

     
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